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大阪地方裁判所 昭和38年(わ)1166号 判決 1964年1月17日

被告人 鳥山正

昭一三・九・一三生 自動車運転者

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、

「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和三八年一月二七日午後〇時三〇分頃、普通貨物自動車大四は五九五七号を運転し池田市西市場町四五番地先長商店にパン代金集金のため北向きに一時駐車し集金後方向転換のため同所先交差点迄後退しようとしたが、交差点の四つ角には人家、生垣等があつて見とおしがきかない上、子供遊園地附近であるから幼児等が通行してくることが予想されるから、前記長商店の店員等に臨時に助手を依頼する等して後方並びに車体周囲の状況を確かめさせ、その合図誘導等に従い自らも能う限り後方並びに周囲の安全を確認しつつ後退し危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、警音器を吹鳴し左右バツクミラーで後方を顧みたのみで時速約五粁で後退した過失により、自車左後方附近を通行中の清水義治(当時三才)に全く気付かず、自車左後輪附近を同人に接触させて路上に転倒させ、よつて同児をして翌二八日午後六時頃同市東市場町一六四番地正井病院において脳底骨折により死亡せしめたものである。」

というのである。

よつて審究するのに、昭和三七年一月二七日午後〇時三〇分頃池田市西市場町四五番地長延方東側前路上において、被告人の運転する普通貨物自動車が方向転換のため時速約五粁で後退(南進)中その左側後部が清水義治に接触し、同人はその場に転倒したが、翌一月二八日午後六時頃同市東市場町一六四番地正井病院において脳底骨折により死亡するにいたつた事実は、検察官提出の証拠によつて認められるところであつて、問題は清水義治の死亡事故が被告人の業務上の過失によるものであるか否かに帰着する。

まず、本件事故現場の地理的状況についてみると、長方東側道路は幅員六米のアスフアルト簡易舖装道路でありその東側には子供遊園地があること、長方東側前と西側には高さ一九五糎の生垣があり、同家南東角より北東一、一米(同家東南角より西南一、七米)の個所に電柱のあること、接触現場と認めるべき転倒した被害者の頭部の存した位置は、長方南側溝の外側を東方に延長した線から約四、七米北方、長方東側溝の内側より約一、七米東の地点であること、および被告人の自動車が最初に駐車した際同車左後部のあつた地点は、右の接触地点より約三、三米北方であつたことは、いずれも当裁判所の昭和三八年八月一日付検証調書並びに司法巡査作成の実況見分調書によつてそれぞれこれを認めることができる。つぎに、被告人のとつた行動についてであるが、被告人の司法巡査に対する供述調書によると長方で集金を終つた被告人は、駐車中の自車の後方を廻つて安全を確かめたが誰も人影がなかつたので大丈夫と思い、発進の時にはクラクシヨンを鳴らし左右のバツクミラーで後方を見たが誰れもいないので後退をはじめたことが認められるのである。

検察官は、本件のような見透しの利かない地理的状況において後退するに際しては誘導者をつけるべき業務上の注意義務のあることは当然であり、本件においては長方に赴く前その手前の十字路で降ろした森中護の帰宅を待たせ、同人に誘導させればこの注意義務を容易に遵守し得たに拘らず、これをなさなかつた点に被告人の過失があると主張している。まず、見透しの点については、当裁判所の検証調書によつて認められるように、駐車位置から十字路西側に対する見透しは困難であるけれども十字路を経て真直ぐ南方への見透しには何らの障害物もなくきわめて容易であり、現に被告人は発進前に自車後方を廻つて後方の安全を確かめ、さらに警音器を鳴らし左右のバツクミラーで後方の安全を確認して後退しているのである。後退時には誘導者をつけるべきであるという検察官の主張についてみると自動車運転者には後方直後に危険のないことを確認したうえで後退を開始することが必要であり、たえず後方に対し周到な注意を払うべき注意義務の存することはいうまでもないが、乗合自動車でもなくかつ同乗の運転補助者もいない場合に、自動車運転者に対し後退時に誘導者をつけるべき注意義務を認めることはできない。もつとも、本件においては、前示のような地理的状況のほかに、十字路で降車した森中護がいたわけであるから、同人を待機させ誘導させておれば望ましかつたとはいいうるであろうが、同人はもともと被告人の運転補助者ではなくたまたま十字路まで同乗したにすぎないのであるから、これをしなかつたことをもつて直ちに被告人に注意義務違反の過失があつたということはできないと考える。「長商店の店員等に臨時に助手を依頼す」べきであつたという点については、かりに長商店に店員がいたとしても、なお右と同様であると解する。(なお附言すれば、当裁判所には、前示のように後退中の被告人の自動車に、十字路西側から遊園地に赴くべく長方前道路に斜に走り出た被害者が接触したものと思われる。)

本件の結果は重大である。かわいいざかりの幼児を本件事故で失つた遺族の悲嘆の心情は察するに余りあるが、結果の重大性から逆に被告人の過失を推認できないことはいうまでもない。本件現場の地理的状況を充分考慮しても、被告人のとつた措置さらには接触地点等を考えると、当裁判所は、被告人に過失があつたとする検察官の主張を容認することができなかつたのである。

結局、被告人の過失の点についてその証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対して無罪の言渡しをするものである。

(裁判官 児島武雄)

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